2023.08.17
スタッフブログ
コンテンポラリーダンス
輪和建設、大工の國分です。
このお盆は学生時代と無職時代を共にした友人と一緒に、その時にお世話になった方々にお会いするため高知県に足を運んでました。
友人は今ダンスを学ぶために8ヶ月のダンス合宿に参加しているとのことで、その話を聴く中で出てきたコンテンポラリーダンスの話が面白かったので書きたいと思います。
建築の歴史を見るとゴシック建築であったりロマネスク建築であったりとするように、ダンスにも色々な派閥というかジャンルがあります。それらは歴史の中で、以前のものの逆(シンプルが流行ってたら派手に)に行こうといった動きの中で、表現方法があっちに行ったりこっちに行ったりするのですが、ダンス界においてはついに逆にいったけど、過去に遡ればすでにあるやんといった状態になってしまったそうです。
そこで、こういう表現をしようといったダンスをデザインするといった行為そのものを放棄したもの、意識せず自然発生的な動きに身を委ねることとする、つまりはコンテンポラリーダンスが生まれたそうです。
そこに求められるのは意識の放棄。
ああしよう、こうしようといった意識を放棄し、内外からの刺激に対してただただ身体が反応し動くこと。
練習の中では意識を放棄する練習をするようです。
そしてコンテンポラリーダンスは海外発祥ですが、日本版のコンテンポラリーダンスもあります。
それは、舞踏(ぶとう)です。
完成しない、常に変化し続ける状態。
不完全である状態を求め続けています。
完成させるといった行為を嫌い、それは新しいものが生み出されない状態であると考えます。
また、このようにしようといったゴールを決めたデザイン的行為も嫌います。それは思いもしない偶然によってこそ、想像も出来ないような新しいもの、素晴らしいものが生み出されると考えるからです。
舞踏は演舞中に演者が急に予定のない動きをしたり、キレたりすることもあるようで、今はダメですが昔は、人は危機的状況のときどのような動きをするのかという思いから演者を宙吊りにしたりと、中々にぶっ飛んだことをやっていたようです。
普通にしていると、つい意図した通りに完成させたいと思ってしまいますが、その癖を外す事が大事なのかもしれません。
そして完成させないということ、デザインをしないということから生み出させる魅力というのは建築においても言えることだなと感じます。
ただ、建築は規模がとても大きく、大勢の人の協力を得て作る必要があり、かつそこで暮らす人々の命を預かるため、デザインしないなんてことはとても難しいところではありますが。
しかしながら街並みに関しては、結構あるのではと感じています。
例えば東京の丸の内と秋葉原。
どちらも魅力的な街ではありますが、
丸の内は大手デベロッパーがしっかりと計画して作り上げられているのに対して、秋葉原というのは自然発生的に出来上がっているわけです。
あれだけのアニメ文化の集積した街が、アニメの街にしようという計画があったわけではないのに生み出させたというのは凄いことですね。
そして計画したわけではないからこそ、想像を超えた魅力的な街並みが完成したのでしょう。
最近の秋葉原は駅前の土地にデベロッパーが介入し、段々と綺麗にデザインされてきているのでちょっと心配です。
デザインする事も、デザインしない事もどちらも大切ですが、飽きのこない真に魅力的なものというのはデザインしない事により自然発生的に生まれてくる物なのだろうなと思います。
自然発生的。
デザインしないと建てれない建築においては、その土地の特性や文化を読み解き、この場所だからこそ生まれるデザインをしてあげる、ということが大切なのかもしれません。
「吉野の木を伝統技法で建てる工務店」輪和建設株式会社では、永く健やかな暮らしを求め、自然素材にこだわった奈良の木の家づくりをしています。
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